さようなら、照井慶太・照井エレナ
2023-09-25


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照井慶太医師が自治医大の教授に就任予定と聞いてびっくりしました。
え? それって本人の希望なの? それとも大人の事情?
まさか単身赴任?

後輩の武之内先生に尋ねたことろ、栄典だそうです。そしてエレナ先生も子どもを連れて栃木に行くとのことです。
それを聞いて大いにホッとしました。
栄典か。おめでとう。

照井先生が小児外科に入ってきた年は、ちょうど大沼先生が教授に就任した年でしたから、ぼくは非常によく覚えています。
天才でも秀才でもなかったと思いますが、真面目で一生懸命な研修医だったと思います。
人として魅力があって、ぼくとは10年以上年齢が離れていますが、一緒にいて楽しい奴でした。

この年は、小児科からエレナ先生が小児外科に転科してきました。ぼくはエレナの指導教官になり、メスの握り方からすべてを教えました。
そして学生時代から付き合っていた、照井とエレナは結婚。
二人に対してぼくは、論文指導もしましたが、手術をたくさん教えたと思います。
素直で純粋で、本当に可愛い後輩でした。

照井は同時にぼくのお師匠さんでもあります。それはJAZZの師匠。
40歳でJAZZに目覚めたぼくは、医学部JAZZ研の部長だった照井から、多くの名盤・名曲・名プレイヤーについて教わりました。

44歳でぼくは、病気で外科医が続けられなくなり、開業医になりました。
でも、照井夫婦との友情は続きました。
開業医になったぼくは、小児外科の最先端の知識から徐々に離れていきましたが、時々一緒に飲みにいく、これも大好きな後輩である武之内先生から、照井が横隔膜ヘルニアに関して多施設共同研究を行い、日本全体の治療成績を改善させたことを知りました。
なるほど、そういう才能があったのか。確かにそうかもしれない。
ぼくは大学を辞めて本当によかったと思いました。
ぼくが辞めるということは、その枠を誰かが埋めるということです。つまり人が育つ。こんなに立派に育ってくれて、ぼくは本当にうれしい思いでした。

写真は、2011年に、照井夫婦と東大小児外科の元教授の橋都先生と一緒にJAZZを聴きに行った時の1枚。
楽しかったなあ。

今回の照井の旅立ちにあたって、ぼくはイタリア製の万年筆を贈りました。
ペンがあれば、いつでも手紙でつながることができるでしょ?
そういう思いからです。

でも。でも、やはり、今後二人に会える日がいつ来るのかを思うと、一体それがいつなのか想像がつきません。
ぼくはどんどん歳とっていきますので、遠くまで出かけるということがだんだんできなくなっていく気がします。
そう思うと、めちゃくちゃ寂しい。
こんなことなら、もっともっとたくさん飲みに行っていればよかった。
なんだかこういう文章を書いているだけでも泣けてくる。いい歳して情けない。ばかだなあ、本当に。

さようなら、元気で。
そしていつかまた会える日があれば、JAZZの話をしながらお酒でも飲もう。きっとだよ。
[仲間]

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