初老の蹉跌
2011-06-04


本を読む習慣は小学3年生の頃から今に至っているが、純文学から離れてノンフィクションを中心に読むようになったのは、大学生の頃と、最近の5年間くらいである。
だが、いくらノンフィクションが好きでも芥川賞・直木賞には関心があり、けっこうな確率で受賞作を読む。
で、西村賢太さんにぶちあたってしまった。

西村さんの私小説は、ほぼ100%が実体験で、だけど、70%くらいが作り話みたいな表現を本人はしていたが、これはとてもよく理解できる。
それはともかく、ぼくは西村さんの本をきっかけに作り話の世界に戻ってしまった。

そこでいくつかの古典を読んだのだけど、面白いことには間違いないのだけど、白々しい。
嘘くさい。
ま、作り話だから当たり前か。

さらに最近、芥川賞を受賞したある作家の本を読んだところ、数ページで投げ出してしまった。
まったく面白くなかったからである。

これは何か、「文学」という芸術性の根本におかしな部分があるのではないだろうか?
音楽だって、絵画だって、自分の好みはあっても「一流」とされているものならば、いかなる作品だって楽しめる。
だけど、文学はそうではない。
文章が気に入らないと、5ページも読むことができない。
音楽や絵画にできて、なぜ、文学にできないのだろうか?

やはりこんなことならば、フィクションには手を出さず、ノンフィクションに舞い戻ろうとした所、なぜか、自分の読みたい本がなくなってしまった。
ノンフィクションで一番面白いのは、人間の本質をえぐり出す作品。だけど、人って(つまりぼくのことね)、長く生きると、人間とはどういう生き物か分かってきてしまう。

「人間にとって最大のストレスは人間」という言葉があるが、まさにその通りだと思う。
そしてこうも思う。
「人間とは、ほっておけば、疑心暗鬼になる生き物」だと。
今の政治を見ていればよく分かるでしょう。

そうすれると、ぼくみたいな初老の人間は何を求めて読書をすればいいのか?
人間なんかに興味を持たないという生き方もある。
家族だけを大事に生きればいいという生き方もある。
金銭的に裕福ならば、それで幸せという生き方もある。

なんで急にこんな風に袋小路に入ったのかよく分からないが、広い意味でぼくが老化したことと関係があるのだろう。
1カ月くらい本を読まないというのも、一つの選択しかも知れない。
この蹉跌をどうやって踏み越えるのか、自分でも興味がある。
[本を読んだ]

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